第一講 「分からない」を知る
どうも、岩塩です。
夏もいよいよ終わりに近づいてきましたね。お盆休み中、という方も多いことでしょう。私もようやく課題やら何やらが片付きまして、ホッと一息ついているところです。
さて、記念すべき第一回目の記事ですが、内容としてはやや堅めかもしれません。この話題について強いてカテゴリ分けするなら「教育」ということになるのでしょうか。専門家ではないのであまり断定的なことは言えませんが、一個人の意見として読んでいただければと思います。
「教える」ことが難しい理由
一般的に、「教える」ことは難しいとよく言われます。教える側が教える内容について深く理解していなければならないからです。この考え方に基づき、生徒同士で「教えあう」活動を授業に取り入れるケースも進学校を中心に増えてきているようです。
そういった「生徒同士」とは少し違いますが、先日偶然にも中学生に数学を教える機会を頂きました。
夏休み期間ということで、「数学に苦手意識を持つ中学一年生」を対象とした勉強会が開かれ、私はそこに質問対応のボランティアとして参加したのです。主宰は私が以前お世話になった学校の先生で、きっと勉強になると思うから、ということでした。
勉強会とは言っても何か授業をするわけではなく、各自が夏休みの課題を持ってきて解く中で分からないところを質問してくる、という形式だったのでそこまで負担はかからなかったのですが、数日間質問対応を続ける中で、「教える」ことを難しくしている要因が必ずしも「教える側の理解不足」にあるとは言えないのではないか、と感じるようになりました。
もちろん、教える内容の理解は「教える」という行為を成し遂げるための必要条件です。しかし、質問の抽象度が高い場合は、いくら教える側が努力しても「質問者の欲しい情報」を「適切に」伝達することができない、ということがしばしば起こります。
怠慢な質問者
分かりやすく説明するために、まずは例としてここで2つの「質問」を取り上げてみましょう。
場面:”She pointed out how difficult it is to be always honest.” という英文を和訳したい
パターンA
「”She pointed out how difficult it is to be always honest.”という文を日本語に直したいのですが、どうすればいいですか? 」
パターンB
「”She pointed out how difficult it is to be always honest.”という文を日本語に直したいのですが、”it”をどのように訳すのが自然なのでしょうか? 」
想定される回答としては、
Aに対して
「彼女は常に正直であることがどれほど難しいかを指摘した(和訳した答えをそのまま教える)」
「point out→指摘する it→形式主語 これで再チャレンジしてみてください(単語/熟語や構文が分からないと推測し、ヒントを与える)」
Bに対して
「”it”は形式主語として"to be always honest"を置き換えているだけなので敢えて訳さないほうが いいですよ」
(一応、Yahoo!知恵袋の質問に対する回答の傾向を見て参考にしました。)
「”it”をどのように訳すのが自然か」というパターンBに対しては具体的な回答が寄せられている一方、「どうすればよいか」というパターンAの質問は抽象度が高いために適切な回答が得られていないような印象を受けませんか?
「質問者の欲しい情報」と「回答者の与えた情報」が合致していなければ、教える側と質問する側の間に全く意味のないやり取りが生まれるだけです。それを防ぐためには、教える側が適切な情報を与えられるだけの能力を持っていること、それに加えて質問する側が教える側に自分の知りたい情報を適切に伝えることが必要になってくるのです。
ですから「教える」ことが難しいと感じたとき、それが「質問の抽象度の高さ」に起因している可能性も否定できません。そしてこの場合、教える側が的外れな回答をしないためには、質問者のニーズに応えるためには、質問者の欲しい情報を「探る」という段階を経なければならなりません。本来、その作業は質問の「準備段階」に組み込まれるべきもので、質問者の仕事なんですけどね…。
「分からない」が分からない
先ほど例として英文和訳に関する質問を取り上げましたが、本来質問する側が、教える側に対して何を求めているのかを明確にする義務があるというのは、どんな質問内容であっても同じです。ところが、不思議なことに「数学」に関する質問となると途端に抽象度が跳ね上がるのです。数学の問題ほど「答えにたどり着くまでの段階」がはっきりしているものは無いと思うのですが。それでうまく答えられないとなると、教える側に問題があるとみなされる。理不尽極まりないですね。
ここで、冒頭の「勉強会」の話につながります。驚くべきことに、そこで受けた質問というのが全て―大袈裟ではなく「全て」、前項で述べたパターンA型に属するものだったのです。
場面:目の前に分からない問題がある。
パターンA’(一般化)
「この問題はどう解けばいいのですか?」
「それではこの問題について、私はあなたにどう解説すればいいのですか?」
こう聞き返す代わりに、(問題集が課題の範囲だったので)自力で解けたという前問と比較したり、どの段階まで自分で解くことができたか訊ねたりして、「分からない」の根源を探りながらどうにか一週間の勉強会を終えることができましたが、本当に「教える」ことは難しいのだと改めて実感しました。
ところで、「分からない」の根源を探るという方法は私の教え方の「癖」みたいなもので、誰に教わったわけでもないのですが、この方法で質問者を満足させられなかった経験はほぼありません。この点は我ながら自慢できるところだと思っています。
ただ、一度だけこれが通用しなかったことがあります。私が中三のとき、―これまた数学を教えていたのですが―、同級生が放った一言、ここに私は限界を感じざるを得ませんでした。
「何が分からないのか、そんなこと分からないよ」
本心か否かは今でも判断の付きかねるところですが、いずれにせよ、あの「勉強会」に参加していた中学一年生が二年後、「『分からない』が分からない」と、平然と言うようにはなって欲しくないな、と思います。
少し長くなってしまいましたが、これにて
第一講「『分からない』を知る」
終了とさせていただきます。面白いな、と思ったり、何か質問等があればコメント頂けると嬉しいです。第二講もお楽しみに!