岩塩教授の部屋

特に意味もなくアタマの中のことを書いていきます。不定期更新。

第二講(前) 嫌いなもの

とにかく、寒い。今更ですがこの時期、冷房効き過ぎてるお店多くないですか?夏場だからこそ、外出するときは長袖を持って行った方がいいのかもしれませんね。

 

どうも、岩塩です。

 

書いているうちに長くなってしまったので、第二講は前後編でお送りします。

 

「嫌いなもの」は無くならない

問題:この世界から自分の嫌いなものが消えたら、何が起こるでしょうか?

 

 

この問いに対する最もシンプルな答えは次のようになります。

 

 

答え:新しい「嫌いなもの」が現れる。 

 

 

ちょっと乱暴に思われるかもしれませんが、これは人間の宿命であると言えます。私たちは幸福に生きるために「嫌いなもの」を求める傾向にあるからです。

 

ここでいう「嫌いなもの」とはすなわち自分が「敵」と認識しているもの全般を指します。それはある特定の個人や団体だったり、自分自身の性格や感情だったりと人によって様々ですが、いずれにせよ、その敵に何らかの形で打ち勝ちたいという欲求が、あらゆる生活行為の原動力となっているのです。

 

また、「嫌いなもの」にはストレスの捌け口になるという側面もあります。「嫌いだ」という感情を理由に何かを叩くことによって、私たちは精神の安定を図ることができます。

 

ですから、私たちは「嫌いなもの」なしに生きることができません。むしろ「嫌いなもの」に生かされていると言ってもいい。

 

「嫌いなもの」への嫌悪感を露わにしながらも、無意識のうちに「嫌いなもの」を求めるというのは一見逆説的ですが、非常に合理的な行動でもあるのです。

 

 共有し、ラベルを貼る時代

インターネットが一般に普及し始めて20年、と言われていますが、「何でも共有しよう」という動きが顕著になってきたのは、SNSが普及してからのことではないか、と私はみています。

 

「自分の好きな食べ物」「自分の見た映画」という日常に密着したものから、「自分の趣味」「自分の価値観」という個人のプライベートにまつわるもの。それらを「共有したい」という願望を手軽に叶えてくれるのが、SNSをはじめとする現代の「インターネット」というツールなのです。現に、このブログも「自分の思考を共有したい」という願望に基づいて書かれています。

 

勘のいい方ならすでにお気づきかとは思いますが、先に述べた「嫌いなもの」もまた共有願望の対象となります。価値観は人それぞれとはいえ、一般化されたモラル(差別は良くない、とか)がすでに世界的に共有されている現代で、総合的に見て「大衆的な価値観」から大きく逸脱するような考えを持つ人は、ネット人口に対する割合から言ってごくわずかです。したがって「嫌いなもの」、言い換えれば「仮想敵」を、ネット上である程度共有するという現象が起こるのは必然的なことです。

 

人はみな、無意識のうちに「嫌いなもの」を求めている。目の前に大衆のコンセンサスを経て作り出された「敵」がいる。

 

そんなとき、「ラベルを貼る」ということがまずはじめに行われます。簡単に言うと「名前をつける」ということです。意識されることは少ないですが、これは敵を叩きやすくするのに最も効果的な行為と言えます。もし名前が付いていなかったら、「嫌いなもの」を指し示すためにのにいちいち「嫌いな理由」を述べなければなりませんよね。敵の名前を共有しておくと、そのワードだけでその場にいる全員に「ああ、あれのことだな」と理解してもらえるので、叩くために超えなければならないハードルがグッと低くなります。場合によってはほとんど取り払われるということもあるでしょう。

 

「嫌いなもの」までも共有し、ラベルを貼る時代。ネットが普及した現代とは、そういう時代なのです。

 

 

 

今回はここまでです。予告通り、後編へと続きます。

面白いな、と思ったり、何か質問等があればコメント頂けると嬉しいです。

※読みやすさの観点から、段落ごとの行間を前回より空けてみました。ページのレイアウトに関する意見も募集していますので、よろしくお願いします。

第一講 「分からない」を知る

どうも、岩塩です。

夏もいよいよ終わりに近づいてきましたね。お盆休み中、という方も多いことでしょう。私もようやく課題やら何やらが片付きまして、ホッと一息ついているところです。

さて、記念すべき第一回目の記事ですが、内容としてはやや堅めかもしれません。この話題について強いてカテゴリ分けするなら「教育」ということになるのでしょうか。専門家ではないのであまり断定的なことは言えませんが、一個人の意見として読んでいただければと思います。

「教える」ことが難しい理由

一般的に、「教える」ことは難しいとよく言われます。教える側が教える内容について深く理解していなければならないからです。この考え方に基づき、生徒同士で「教えあう」活動を授業に取り入れるケースも進学校を中心に増えてきているようです。

そういった「生徒同士」とは少し違いますが、先日偶然にも中学生に数学を教える機会を頂きました。

夏休み期間ということで、「数学に苦手意識を持つ中学一年生」を対象とした勉強会が開かれ、私はそこに質問対応のボランティアとして参加したのです。主宰は私が以前お世話になった学校の先生で、きっと勉強になると思うから、ということでした。

勉強会とは言っても何か授業をするわけではなく、各自が夏休みの課題を持ってきて解く中で分からないところを質問してくる、という形式だったのでそこまで負担はかからなかったのですが、数日間質問対応を続ける中で、「教える」ことを難しくしている要因が必ずしも「教える側の理解不足」にあるとは言えないのではないか、と感じるようになりました。

もちろん、教える内容の理解は「教える」という行為を成し遂げるための必要条件です。しかし、質問の抽象度が高い場合は、いくら教える側が努力しても「質問者の欲しい情報」を「適切に」伝達することができない、ということがしばしば起こります。

怠慢な質問者

分かりやすく説明するために、まずは例としてここで2つの「質問」を取り上げてみましょう。

 

場面:”She pointed out how difficult it is to be always honest.” という英文を和訳したい

パターンA

「”She pointed out how difficult it is to be always honest.”という文を日本語に直したいのですが、どうすればいいですか? 」

パターンB

「”She pointed out how difficult it is to be always honest.”という文を日本語に直したいのですが、”it”をどのように訳すのが自然なのでしょうか? 」

 

想定される回答としては、

Aに対して

「彼女は常に正直であることがどれほど難しいかを指摘した(和訳した答えをそのまま教える)」

「point out→指摘する it→形式主語 これで再チャレンジしてみてください(単語/熟語や構文が分からないと推測し、ヒントを与える)」

Bに対して

「”it”は形式主語として"to be always honest"を置き換えているだけなので敢えて訳さないほうが いいですよ」

 

 (一応、Yahoo!知恵袋の質問に対する回答の傾向を見て参考にしました。)

「”it”をどのように訳すのが自然か」というパターンBに対しては具体的な回答が寄せられている一方、「どうすればよいか」というパターンAの質問は抽象度が高いために適切な回答が得られていないような印象を受けませんか?

「質問者の欲しい情報」と「回答者の与えた情報」が合致していなければ、教える側と質問する側の間に全く意味のないやり取りが生まれるだけです。それを防ぐためには、教える側が適切な情報を与えられるだけの能力を持っていること、それに加えて質問する側が教える側に自分の知りたい情報を適切に伝えることが必要になってくるのです。

ですから「教える」ことが難しいと感じたとき、それが「質問の抽象度の高さ」に起因している可能性も否定できません。そしてこの場合、教える側が的外れな回答をしないためには、質問者のニーズに応えるためには、質問者の欲しい情報を「探る」という段階を経なければならなりません。本来、その作業は質問の「準備段階」に組み込まれるべきもので、質問者の仕事なんですけどね…。

「分からない」が分からない

先ほど例として英文和訳に関する質問を取り上げましたが、本来質問する側が、教える側に対して何を求めているのかを明確にする義務があるというのは、どんな質問内容であっても同じです。ところが、不思議なことに「数学」に関する質問となると途端に抽象度が跳ね上がるのです。数学の問題ほど「答えにたどり着くまでの段階」がはっきりしているものは無いと思うのですが。それでうまく答えられないとなると、教える側に問題があるとみなされる。理不尽極まりないですね。

ここで、冒頭の「勉強会」の話につながります。驚くべきことに、そこで受けた質問というのが全て―大袈裟ではなく「全て」、前項で述べたパターンA型に属するものだったのです。

 

場面:目の前に分からない問題がある。

パターンA’(一般化)

「この問題はどう解けばいいのですか?」

 

「それではこの問題について、私はあなたにどう解説すればいいのですか?」

こう聞き返す代わりに、(問題集が課題の範囲だったので)自力で解けたという前問と比較したり、どの段階まで自分で解くことができたか訊ねたりして、「分からない」の根源を探りながらどうにか一週間の勉強会を終えることができましたが、本当に「教える」ことは難しいのだと改めて実感しました。

ところで、「分からない」の根源を探るという方法は私の教え方の「癖」みたいなもので、誰に教わったわけでもないのですが、この方法で質問者を満足させられなかった経験はほぼありません。この点は我ながら自慢できるところだと思っています。

ただ、一度だけこれが通用しなかったことがあります。私が中三のとき、―これまた数学を教えていたのですが―、同級生が放った一言、ここに私は限界を感じざるを得ませんでした。

「何が分からないのか、そんなこと分からないよ」

本心か否かは今でも判断の付きかねるところですが、いずれにせよ、あの「勉強会」に参加していた中学一年生が二年後、「『分からない』が分からない」と、平然と言うようにはなって欲しくないな、と思います。

 

 

少し長くなってしまいましたが、これにて

第一講「『分からない』を知る」

終了とさせていただきます。面白いな、と思ったり、何か質問等があればコメント頂けると嬉しいです。第二講もお楽しみに!